今年は三年ぶりに真田会研修会と総会に出席させていただきました。これを機に真田ゆかりの史跡など訪れてきましたので、簡単ですがシェアさせていただきます。
念願だった真田信之公の隠居所書院跡に建てられた霊屋を訪れることができました。信之さんは遺命により隠居所を寺とし、真田林大鋒寺と号しました。大鋒は信之さんの院号です。二代藩主信政は父より先に没したので、三代藩主幸道のときに伽藍が建てられました。霊屋の本尊は信之さんが信仰した阿弥陀三尊です。お墓まいりに訪れたことはあるのですが、霊屋は初めてです。
大鋒寺は信之さんがご隠居として暮らし、生涯を終えた屋敷跡(書院跡)に建っています。お墓の敷地内には家臣の鈴木右近さんのお墓が寄り添うように建っています。右近さんは生涯をかけて信之さんにお仕えした人物ですが、残念ながら大河ドラマ「真田丸」には登場しませんでした。当時は主人の後追い切腹は禁止されていましたが、特例として許されたそうです。
私は霊屋の信之さんの木像はもちろん、右隣の鈴木右近の位牌と、両脇の障子にそれぞれ大小の鳥かごとその中に一羽の鳥が描かれているのをどうしてもこの目に刻んでおきたいと思っていました。徳川幕府には、かごの中の鳥はもう絶対に外へ出て行かないようにしてあると示していたそうです。この鳥の大きい方が昌幸公、小さい方が信繁公なのだと・・・。
二人は死んでも幕府にとっては敵であり、弔いをすることも叶わなかったのです。この隠居所で父と弟を思う信之さんの気持ちを想像すると・・・(涙)
武田信玄公の弟、武田典厩信繁公の寺「典厩寺」にもおまいりをしてきました。ここには二人の「信繁」が。川中島の合戦の際、この寺を典厩本陣として出陣しましたが、この激戦で 37 歳で戦死しました。この寺に埋葬されましたが、真田信之公がかつて武田の重臣であったことから武田信繁の菩提を弔うため、その名をとって典厩寺とあらため、真田藩主の武家寺として発展しその歴史を伝えています。
今年の真田会研修会は、信之公の正室小松姫の菩提寺「大英寺」にて開催され、小松姫の御霊屋を見学させていただきました。大英寺は松代藩初代藩主真田信之が、奥方であった小松姫(大連院殿)の菩提を弔うために建立したお寺です。小松姫は徳川家の重臣本多忠勝の娘で、徳川家康の養女となり嫁いだため信之を助け大変立派な奥方だといわれました。 明治維新の後は、真田家の援助も碩地も無くなり大きな寺の維持は困難になりました。そのためいくつかの堂を取り壊し、真田家にお願いしてお霊屋を本堂にし残りの材で庫裏を造りました。
象山記念館に行き、象山地下壕を目指して歩いていると、六文銭が見えるお寺があり近づいてみると、三代藩主真田幸道公が造営したお寺「恵明寺」でした。敷地内には豊姫の墓所があります。豊姫 ( あんず姫 ) は、15 歳にして幸道に嫁ぎました。豊姫が実家より鉢植えのあんずを持参したのが善光寺平にあんずの樹が来たはじまりといわれています。今も当時から三代目に当たるあんずの樹が境内に残っています。松代といえば、長いもと麦ご飯、そしてあんずも有名です。 真田会総会では真田宝物館研究員さんによる「真田信之公について」をテーマに講演がありましたので、一部抜粋させていただきます。
松代藩 250 年の基礎を盤石にしたのは信之公とその家臣たちであり、信之公が長寿であったことが大きな理由とも言えます。私は、あらためて信之公の偉業と真田昌幸公と信之・信繁兄弟の絆に感動しました。
真田信之公略歴
・永禄 9 年(1566)真田昌幸の長男として生まれる、おそらく甲府生まれの甲府育ち 初名源三郎のち信幸、関ケ原合戦後は信之「信」の字は武田氏の通字、おそらくは武田勝頼の嫡男・信勝と共に元服し、その時に賜ったか。 武田氏滅亡(天正 10・1582)の頃から歴史上に名があらわれる。
・父昌幸が豊臣秀吉に臣従し徳川の与力大名となった天正 17 年前後に小松姫と結婚。
・慶長 5
年(1600)関ケ原の戦いでは父・弟と別れ徳川方として第二次上田合戦に参陣。徳川方が勝ったため小県、上州・沼田は信之の領国となる。 慶長 19・20
年(1614・15)大坂の陣では病気を理由に参陣せず、息子の信吉・信政を派遣。
・元和 2
年(1616)本拠を沼田から上田へ。
・元和 8
年(1622)松代移封、10 月に松代入りしたとみられる。57 歳か。
・明暦
2 年(1656)10 月家督を信政に譲り隠居、柴に移り住む。
・明暦 4
年(万治元年 1658)2 月信政死去、6
月に右衛門(後の幸道)相続。
・万治元年(1658
改元 7 月)10 月 93
歳で死去。